薬が過ぎて 毒になる
私の迷夢が 棚曇る
あなたの頬を切りながら
ガラスは砕けた、叫んでた
フルフルフルル 愛してる、
フルフルフルル 首絞める。
思い通りは無理だよ、と
思い通りに 傷つくの。
心が癒える黒魔術
たった一度の 刺し違え
「裏切られた」と わめき立て
あなたの心を裏切った
フルフルフルル 愛してる、
フルフルフルル 首絞める。
いつかこの日を 笑うため、
ふたりは束の間 哀しむの。
フルフルフルル 愛してる、
フルフルフルル 抱き締める。
痛みを知った その顔が、
笑う理由が解ったの。
フルフルフルル……
夕まぐれ 月とはぐれて
届かぬ窓に首を痛めた
蝉が啼く 時のはずれに
蛹を捨てて まばたきになる
奈落の街の眩しさに
全身刺されてしまいそう
洗脳箱の歌声が
大事な人を いつもいじめた
ビルの上 したがえる空
身を投げるように 今、舞い降りる
思い出す 海の底には
空回りした熱があるだけ
呼び覚ます 水面の色は
どれも冷たく 白い色だけ
昇る黄昏 速すぎて
身体が潰れてしまいそう
はしゃぐ奴らの思惑が
僕らの線をぐしゃぐしゃにした
僕は あの人の手を引こう
届かなかった 窓の向こうへ
本が読破できないっていうのさ、内容に興味がないとか・思想が違った(期待外れ)とか・文が自分に対して難しすぎるでなければ「ないだろ」って思ってたのね、それがこういう形で「寝かされる」ことがあるのが実戦でやらされてるの怖すぎて。。。
「死に至る病」が、まだ読破できていなかった。それはキルケゴールへのごく個人的な感情からだった。一方で「自分は哲学徒であるからして、キルケゴールの思想を読み切る義務がある」という気持ちとの板挟みにもなった
二項対立か…二律背反:アンチノミーに近しいものがあるよね。私自身はそのアンチノミーを「どちらも真だから愛おしい」って公言してたくせに、いざ自分の前にそれが壁のように立ち上がるとこんなにちっぽけに弱くなるんだ。
解ってる。
◆志向性
意識は必ず「何かについての意識」で、矢印のように方向をもっている、このこと。意識は「〇〇についての意識」としてしか成立しない!
◆ノエシス-ノエマ
解説書ではざっくり「それぞれコギタチオとスペチエスのようなもの」と解説されてた。実際に細かく言うと:ノエシス→見る・思い出す・想像する・評価する・疑う…といった意識の「動き」:ノエマ→対象の意味付けられた「現れ方」色も形も、意味付けも「これは〇〇だ」という概念も!
◆地平
意識から与えられる世界の感じ方の土台。それはいま眼前に見えているものだけでなく「背後はこうなっているだろう」とか「他の人からみたらこうだろう」とかいう可能性の束をも含んでいる。みんな違う地平(個人的地平)をもってるけど、世界確信をもつとき、間主観的には同じ地平(間主観的地平)に立てる!これ奇跡すぎる
地平が出来るまでには様々な経験の連鎖があり、それはジョン・ロックの経験論を思わせれるけど、ロックの論だと「意味も経験から作られる」解釈なのに対して、フッサール現象学では「経験は最初から意味をもってやってくる」と解釈。経験そのものは「生データではない」
◆志向的満足性
「意識が予期していた現れ方」と「実際の現れ方」の一致。振り向いたら本棚があるだろう→後ろを見たら本棚があった。この満足のこと。
◆妥当性の層
妥当性にはいくつかある。個人だけが確信しているのか、親しい人との間で確信になるのか、村レベルで確信してるか、世界的常識の確信なのか…この違いを「層」という言葉で表している。
志向性満足性や、妥当性の層は、揺らがないほうが安心するように思えるけれど、寧ろ少しぐらい揺らしてあげたほうが「地平が開ける」かなと感じる
◆対象妥当性の共有
他者に「リンゴ取って」と言ってちゃんとリンゴを取ってもらえるのは、私と他者が「同じリンゴの世界」を共有しているから。これは「当たり前」ではない…間主観性がなかったら「リンゴ取って」も相手からは「は?リンゴ?取るって何?」となってしまい、社会そのものが成立しなくなる。
◆身体的間主観性
他者のことを「相手も自分と同じ構造をもつ存在だ」と認識し、ひいては「私と同じ世界を共有できる存在だ」と認識すること。
◆宙づり
エポケー(判断中止)すると、自然的態度の確信が握られた手から離れるような状態になる。それのことを「宙づりになる」と呼ぶ
◆移入
他者の身体を「この人も心が或る」「世界を一緒に見ている」と思える意識の能力。これがなかったら、痛がっている怪我人がいても、手当てをするとか、救急車を呼ぶとかいう発想に至れず「ただ肉塊が動いてる」と認識してしまうだろう。よく言われる「想像激痛」とかは移入そのもの。「間主観性は移入の地平から立ち上がる」
◆生活世界
フッサールは晩年、自然的態度でできた世界のことをみんなが共有する間主観的な前提としてこう表した(らしい)。
おまけ:エポケーの由来は、古代ギリシアの哲学者ピュロンの語(懐疑論の祖と呼ばれる人物らしいが、私にはどうもピュロンが『懐疑論者』に思えない)――フッサールはそこに新しい解釈を加えていると言えばよいか。
