[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
HN:
Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
誕生日:
1990/07/22
自己紹介:
観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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Wahrheitと――そう名乗りを改める。私の真理と呼んだもの、ヴァールハイトの名をそのまま背負うのだ。私にとってそれ[ヴァールハイト]は、自己の行くべき方向を指し示すものでも、その現在地を確かめるためのものでもなく、自己自身のエンジンそのものなのだ。エンジンまでも壊れてしまうのは、命が閉じる時だけでいい。だからここに居る私自身が名乗る。私がWahrheitであると。
然し思念というのは殆ど追いかけっこのようなものである――「あれ」を手に入れた私は、次なる「あれ」を目指してしまうのだ――ストア派みたく生きてみたい私と、誰かから慕われて無様に崩れてしまいたい私。この時私は単独で成立させるアンチノミーの下に立ち尽くしているが、引き裂かれてはいなかった。ただ、私自身がそういう人間であるという事実を観測し続ける必要はあった。エポケーすることの難儀さ。
相手が現実だろうと絵空事だろうと、他のものに向けて差し出さんとする私はいつだって相対的に空虚になる。これまでの半生にて、全身全霊で他のものを使って埋めようとしてきた部分が「否、それでは埋まることはありません」と主張し始めているのだ。その中で既に在る反証と、凡例の幾つか。
たとえば単にこうして思考を書き留めるだけでもよいのだ。それで充分にSolitudeの仕方はなっている。然しそこで、顔のついたあれこれ無数のものに囲まれて、ふと「寂しさ」を覚える。複雑怪奇。
人間は何にでも顔をつけたら愛らしさを見出せるのに「点が三つあれば顔に見える」などと語るときはホラーの文脈――壁や天井の染みの話など――である。結局、顔というのは人にとって愛らしいのか怖いのか。どちらでもあるのだろう。人間はおそらく、顔のあるものを単なるゴミとして廃棄するのが怖いから人形供養などということをするのだ――これは単なる憶測であるが。
理解してはいない概念だが、レヴィナスの言った「顔」をふと思い出す(レヴィナスも現象学の延長線上に居るのだろうとは思うが、フッサールでもハイデガーでもなく、敢えて何処かに定めようとするならデリダなどに近いし、だがやはりそれとも異なりレヴィナスという感じがする)。
私は今も、レヴィナスの言ったそれとは違うだろうが――部屋で無数の顔に囲まれ、それに依ってうっすらと空虚を感じている。愛好して集めたぬいぐるみやフィギュア、或いはタペストリーなどのキャラクターの顔が、今日は安心ではなく対立する何かになるのだ。私はそのとき、自己のプシュケーのふるえをじっと見つめている。それしかできないからである。無力なる全力。
今宵はエンジンとやらが少し空回っているのかもしれない。迷走する私も真理のうち。疲労には勝てないようである。
然し思念というのは殆ど追いかけっこのようなものである――「あれ」を手に入れた私は、次なる「あれ」を目指してしまうのだ――ストア派みたく生きてみたい私と、誰かから慕われて無様に崩れてしまいたい私。この時私は単独で成立させるアンチノミーの下に立ち尽くしているが、引き裂かれてはいなかった。ただ、私自身がそういう人間であるという事実を観測し続ける必要はあった。エポケーすることの難儀さ。
相手が現実だろうと絵空事だろうと、他のものに向けて差し出さんとする私はいつだって相対的に空虚になる。これまでの半生にて、全身全霊で他のものを使って埋めようとしてきた部分が「否、それでは埋まることはありません」と主張し始めているのだ。その中で既に在る反証と、凡例の幾つか。
たとえば単にこうして思考を書き留めるだけでもよいのだ。それで充分にSolitudeの仕方はなっている。然しそこで、顔のついたあれこれ無数のものに囲まれて、ふと「寂しさ」を覚える。複雑怪奇。
人間は何にでも顔をつけたら愛らしさを見出せるのに「点が三つあれば顔に見える」などと語るときはホラーの文脈――壁や天井の染みの話など――である。結局、顔というのは人にとって愛らしいのか怖いのか。どちらでもあるのだろう。人間はおそらく、顔のあるものを単なるゴミとして廃棄するのが怖いから人形供養などということをするのだ――これは単なる憶測であるが。
理解してはいない概念だが、レヴィナスの言った「顔」をふと思い出す(レヴィナスも現象学の延長線上に居るのだろうとは思うが、フッサールでもハイデガーでもなく、敢えて何処かに定めようとするならデリダなどに近いし、だがやはりそれとも異なりレヴィナスという感じがする)。
私は今も、レヴィナスの言ったそれとは違うだろうが――部屋で無数の顔に囲まれ、それに依ってうっすらと空虚を感じている。愛好して集めたぬいぐるみやフィギュア、或いはタペストリーなどのキャラクターの顔が、今日は安心ではなく対立する何かになるのだ。私はそのとき、自己のプシュケーのふるえをじっと見つめている。それしかできないからである。無力なる全力。
今宵はエンジンとやらが少し空回っているのかもしれない。迷走する私も真理のうち。疲労には勝てないようである。
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