[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
HN:
Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
誕生日:
1990/07/22
自己紹介:
観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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(noteより転記)
デリダの解説書を読んでから「答えを出さないこと」「定義しないこと」を改めて考えてる。
中学時代、学校にスクールカウンセラーが居て、話したことがあった。私の悩みを聞いて、スクールカウンセラーは「ありのままの自分を受け入れるのよ」と言った。半分は、まあ納得したし、しばらくそれを人生の目標にしてた。
ただ、もう半分は「ありのままって、どれのことだ?」っていう疑問だった――それは30代になってから、心理学ではなく哲学という学問が紐解いてくれたものだった。
でも今思えば、あのときのスクールカウンセラーの言動は、私にとっては間違いでもある。「ありのままの自分を受け入れるのよ」っていう言葉の固定性に違和感があるのだ。
ありのままの自分っていうのが何処かにはっきりあって、受け入れるっていう明確な行為がある。それを「答え」として、差し出してしまうっていう。
人によってはそれが「単純明快!」として救われる言葉なのかもしれない。ただ結局私は今も「ありのままの自分を受け入れる」という状態ではない。然し、別に自己否定感が強いということでもない。寧ろ昔は、理由も解らず異様に卑屈だったのに、近年そういう姿勢がさっぱりなくなっている。
心が剛健・鈍感ではないなりに、しなやかさを持ったり、一般の人より繊細であるなら回復を早めに行うとか、工夫ができるようになったり色々している――でも、それらは「ありのままの自分を受け入れ」た結果としてではなかった。
今も「ありのままの自分」「受け入れる」という両方についてよく解ってない。だからずーっと保留している(苦笑)。でも昔より、はるかに健やかに生きているんだ。
少し話の色を変えるが――たぶん10代ぐらいから、ずっと「憧れ」という感情について考えてる。
憧れる時、少なくとも私は「この人に(この人のようにではなくて、私をやめてこの人そのものに)なれたら、苦痛が一切なくなり幸せになれて順風満帆な人生を送れる」と勝手に考える癖がある。
それこそ、それってただ思考にそういう「癖がついている」ので、どんなに心が成長しても、誰か何かに憧れるたび、やっぱりそう思っている。
ただ、昔はそう思ったらそうできなければ自己を許せなかったから、何らかの形で憧れを体現しようとしてた。全部失敗したけどね。でも、今はもう、ちょっとだけ考えようとして、そこでふと「あ、癖出てるわ~」になって終わる(爆)
そもそも憧れを体現しようとする=本気で他人に成り代わろうとするのだって「ノミとイヌの環世界を挿げ替えたいです」って言ってるような「無茶振り」なのに、昔は本気で現実にしようとしてたんだから、エネルギッシュだったよなぁと(笑)。
そのエネルギーで迷走しまくって、やっとここまで来てくれた、自分よ…↕️って取り敢えず思ってる。
答えは出してこなかった。最初から「自明なものなんて何もないです。わかりません!」を貫いているこの半生。そこに今更明瞭とした「正答」の名をしたものが来ても私は困ることだろう。そんな私は多分、これからもこのまま行くのだと思う。
志向性の矢印は、ゆらゆら向きを変えながら。この先は何処へ行くのかなと、見遣るような気持ちで。
デリダの解説書を読んでから「答えを出さないこと」「定義しないこと」を改めて考えてる。
中学時代、学校にスクールカウンセラーが居て、話したことがあった。私の悩みを聞いて、スクールカウンセラーは「ありのままの自分を受け入れるのよ」と言った。半分は、まあ納得したし、しばらくそれを人生の目標にしてた。
ただ、もう半分は「ありのままって、どれのことだ?」っていう疑問だった――それは30代になってから、心理学ではなく哲学という学問が紐解いてくれたものだった。
でも今思えば、あのときのスクールカウンセラーの言動は、私にとっては間違いでもある。「ありのままの自分を受け入れるのよ」っていう言葉の固定性に違和感があるのだ。
ありのままの自分っていうのが何処かにはっきりあって、受け入れるっていう明確な行為がある。それを「答え」として、差し出してしまうっていう。
人によってはそれが「単純明快!」として救われる言葉なのかもしれない。ただ結局私は今も「ありのままの自分を受け入れる」という状態ではない。然し、別に自己否定感が強いということでもない。寧ろ昔は、理由も解らず異様に卑屈だったのに、近年そういう姿勢がさっぱりなくなっている。
心が剛健・鈍感ではないなりに、しなやかさを持ったり、一般の人より繊細であるなら回復を早めに行うとか、工夫ができるようになったり色々している――でも、それらは「ありのままの自分を受け入れ」た結果としてではなかった。
今も「ありのままの自分」「受け入れる」という両方についてよく解ってない。だからずーっと保留している(苦笑)。でも昔より、はるかに健やかに生きているんだ。
少し話の色を変えるが――たぶん10代ぐらいから、ずっと「憧れ」という感情について考えてる。
憧れる時、少なくとも私は「この人に(この人のようにではなくて、私をやめてこの人そのものに)なれたら、苦痛が一切なくなり幸せになれて順風満帆な人生を送れる」と勝手に考える癖がある。
それこそ、それってただ思考にそういう「癖がついている」ので、どんなに心が成長しても、誰か何かに憧れるたび、やっぱりそう思っている。
ただ、昔はそう思ったらそうできなければ自己を許せなかったから、何らかの形で憧れを体現しようとしてた。全部失敗したけどね。でも、今はもう、ちょっとだけ考えようとして、そこでふと「あ、癖出てるわ~」になって終わる(爆)
そもそも憧れを体現しようとする=本気で他人に成り代わろうとするのだって「ノミとイヌの環世界を挿げ替えたいです」って言ってるような「無茶振り」なのに、昔は本気で現実にしようとしてたんだから、エネルギッシュだったよなぁと(笑)。
そのエネルギーで迷走しまくって、やっとここまで来てくれた、自分よ…↕️って取り敢えず思ってる。
答えは出してこなかった。最初から「自明なものなんて何もないです。わかりません!」を貫いているこの半生。そこに今更明瞭とした「正答」の名をしたものが来ても私は困ることだろう。そんな私は多分、これからもこのまま行くのだと思う。
志向性の矢印は、ゆらゆら向きを変えながら。この先は何処へ行くのかなと、見遣るような気持ちで。
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