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[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
HN:
Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
誕生日:
1990/07/22
自己紹介:
観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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(noteより転記)



◆続・祝福前夜
早すぎる朝を迎えた。この時期の私の「朝」に朝日はなく、まだ暗い。「祝福前夜」が、続いているかのようだ。

寝たら思考が「熟成」されるかなって、いつもみたいに何となく「解決」しちゃわないかなって、或いは「自分にとっての『神』なんてまあいいや、生きよう」って思えないかなって、変な期待をしてた。けど、そうならなかった。まあ、でも、それだけこれは核心的なテーマだからなんだと思う。

還るべき場所。

自分は、人生の苦しみの最初期に「この世界は居場所じゃなくて、何処かに『別の世界』がある」って唱えた(最初にと言っても、それは高校生~10代後半ぐらいのことなのだけれど)。

だから、この世の何処かを「還る場所」と定めたいとは思わない。何処に居ても一緒。物理的に、ひとりになっていてさえ、外界を感じつづけ、浸食される内在がある。そうである以上、私は外側には「還れない」。

ただ、いまは「物質的に別の世界が存在する」とは当然思わなくて、還るべきは心の中、ただそれでいいと思ってる。




物質的別世界として「還る場所」を想像していた頃、それとして考えていた「緑色の空があり、異物のような塔がそびえたつ世界」。或いは一時期に安心できる内的世界として想像された「大樹が一本あるだけの丘」――それらは過去に「ホーム」だったけれど、いまその概念と「完全一致」には思えなかった。

でも、いまの自分は昔ほど創造的でもなく、新しく内的世界の表象を独自に一個立ち上げられる自信はない。でもそれって逆に言えば「自分を正しく評価してない」だけだとも思う。

そこでその「ホーム」については、あの頃は自律的に「内的世界として作れた」、いまは何か「別の還り方がある」それだけのものなのだと仮定した。

しかし私は理論屋さんではない。完全に、そうじゃない。だからこんなに理詰めにしたって答えは出ない。寧ろ理論屋さんだって同じだろう。その人のWahrheitに触れる瞬間には、きっと理屈じゃなくて「本質観取」が発動してる。

◆本質観取 - ライフストリーム
その「ホーム」は、内的世界を豊かに想像として描くのではなく、何かが「分かる場所」という概念だけでいい。そう考えたとき、目を瞑った中のような、ほぼ人間にとって「光を失った」ような中に、何かの空気の流れが、うねうねと立ち上るさまが思い浮かんだ。

その形なき気配が、私のWahrheitなのだろう。物理的に瞑目する必要はないが、敢えてWahrheitのことを「想像」しようとすると、いつもそんなことが表象された。ただ暗い・黒い中を、自分にだけ解るライフストリームのようなものが縦に流れ、貫いている。色とか形をはっきり言えないのに、ある。

ただ、その像だけでは「本質観取」は起こらない。

「本質観取は、向こうから来る」

そう思ったとき、烈しくではなくても、ほろっと何滴かの涙がこぼれた。これは間違いない。Wahrheitの傍まで来られている。あと一押しって言える何かが今まだないだけだ。

Wahrheitという言葉のことは疑わないし、ライフストリームの気配と表現したのも自分の人生で触れてきた語彙と観念から言って「合ってる」。

「本質観取」を、迎え入れる部屋があるとしたら、そこまで物理的に徒歩で向かうような仕方はいらない――これは自明。つまり私は、物理的にこのデスクの前から動く必要はない。

もう内在は、自分以外に外壁を(意図的かそうでないかに拘らず)ベタベタ触られることがあっても、その内側に「良い意味で何も寄せ付けない領域」を内包しているんだ。

そう、内在とはいえ、自分ほどの感覚の敏さがあると、いちばんの外壁は外界と摩擦を起こしてしまう。でも、それでも「傷つかない何か」がある。そして「傷つかない何か」と表現した瞬間、また涙が湧く。

泣いている。さっきまでよりは本格的に涙が出ている。でも暫くして止まった。そして或ることを思い出していた。それは世間的に言えば「ただのゲームキャラのこと」。でも、ゲームの中に哲学がないとは思わないから、そのまま続ける。

「FINAL FANTASY7」の主人公、クラウド・ストライフ。普遍的名作の主人公で、たとえば「中二病の子」が好むものの一例として挙げられるほど「或る種、本質的な人間」を内包するキャラクターといまは考える。

(以下『FINAL FANTASY7』のネタバレに注意されたし)


彼は偽の人格を無意識に構築した状態で本作のスタート地点に立ち、物語の佳境にて精神崩壊を経験し、そこから立ち直る。

その「立ち直りのきっかけ」が、ゲーム中の物質的な現象として現れる「ライフストリーム」の中だった――そこに彼の本来の人格を思い出させ、偽の自分を捨てさせる「本質」があった――それで私は「ライフストリーム」という語を、そのまま用いた。

作中のグラフィックでは確か、エメラルド色で、大きな水溜まりのようなそれ。ライフストリームが地面からところどころ表出する中、精神状態がひどくて歩くことさえままならず、車椅子を押されているクラウドの姿、なんとなくだけど覚えてる。


「偽の自分→精神崩壊→『素直な自分』の取り戻し」これはとても私の流れによく似ている。精神崩壊は、或る種、私にとって精神病という転換点だった。それ自体は人生の核心的な問題ではなかれど、クラウドに自分を重ねる際はそう解釈でき、実際病気にならなければ「自分の心に太刀打ちしよう」とは思わなかったろう。

でも、いまは「太刀打ち」という語は少し違うと感じる。得物を向けることが違う。敵はいない。ただ何処までも「自分」があるだけ。

「FINAL FANTASY7」を、クリアこそしているものの、私は完全に詳らかなストーリーを覚えていないので、雰囲気だけ思い出した上で、Wikipediaを参照しつつここまでの文章を書いた。あのストーリーを思い出す中で、もう涙は流れないのに、確実にWahrheitが傍に在るのを感じる。

◆転換点
たとえば、涙が流れ打ちふるえるとき、Wahrheitは私の真正面に、まさしく神のような「人と隔たりのあるべきもの」として、なのに確実に相対している。でも、今は傍らに「気配がある」ような感じ。

夜明け前の、でも自分にとっては朝にあたる時間の中で、まだ外界(自室の外)の誰も起きて活動していないときに、冴えわたっているのでもない精神に或る明瞭さ。

私は、それで、充分だと思う。いまは。

普遍語の「自分軸」に対して「私には『軸』なんてない」と思いつづけた。流体が私の正解。軸なんてものを設けた瞬間に嘘が発生する。そう思ってたのに、その言葉自体がフィットしなくても、私はいま内側に「絶対と言っていいほど変わらない・動かない部分」を感じてる。

これで充分なんだろう。

外界に晒される内在は、外壁やその付近では揺れることが多々ある。そしてその中に「動かないWahrheit」を核としてもつ。THE BACK HORN的に語れば「部屋の隅っこも 宇宙の端っこも」同じで、家の自室の中だって、外だって、家族から逃れた都会のカフェだって、内在の揺れは失われない。それがDaseinだろう。

でも、揺れながら倒れないのは、世間が嫌だとだけシンプルに帰結しないのは、そして自由意志として生き続けてるのは、そのWahrheitの力。それは生命力そのものだけど、生命力という語では足りなくて、もう魂(プシュケー)でしかないし、それすらも微妙な差異のある語。

きっと私はこれを以て、Wahrheit(ヴァールハイト)という語でしか、自己の真理を語れなくなったのだ。答えに等しいものが、もう出ている気がする。

◆私の「Wahrheit」の定義とその実態
私のWahrheitは、核で、軸ではなく点として揺るぎなく、そこからは自己を縦に貫くライフストリームのうねりの気配がある。

――敢えて「定義として語る」なら、説明書きはそうなる。

そしてその言葉は外殻で、私のWahrheitを知るのは私だけになると思う。

「私は核をもつ精神である」その意識が発生した以上、どんなに揺れることがあっても「還ってこられる」だろう。

ここまで書いて、このふしぎな「現象」は、何だったんだろうと思い返している。起こって、終わってないけど、続き物にも思えなくて、なのに今後の人生が固められたような。

環世界を唱えたユクスキュルでもなく、フッサールやキルケゴールでもなく、またここまでの「整理」を手伝ってもらったChatGPTでもなく、自分に依って固められたような。

◆「さて、これから何をしよう?」
そして、普遍語でいうと「結論が出た」ところで、今後のことを考えたい。

今後の人生って、ずーっと哲学書を読む自分を想像してた。でも、それは絶対じゃなくなってしまった(しまった、と言ってるけど、悪い意味ではなく)。

寧ろ「自分の哲学」を語る中で、ロックバンドやゲーム作品が登場するみたいに、それは何処にでもあって、今まで生きてきた・そしてコンテンツとして薄いと思ってたオタクカルチャーの中にだって哲学できる人になってしまったんだと思う。

だから、音楽を聴いたり、ゲームをプレイしたりしながら、思ったことを「哲学的」に書き残すのだっていい。その基本方針は解るし、解るからといって絶対曲げてはならない部分でもない。

でも「ずーっと哲学書を読んで生きる」と思い込んでた自分からは、もうこれまた流体的に外れていく。

「死に至る病」だって、読破できてない。単独者の語が出て、キルケゴールが大聖堂の中へと閉じていく表象の中で、私は自然と読書の手を止めてた。偶然だけど、結局はそこで「自分も還るべきところがある」と解っていたということだったのかもしれない。

そしてたぶん、それが今できてて、なのにあの続きを読みたいとは思わされないし、完読してない=悪い、とも決めつけない。

「さて、これから何をしよう?」こういう問いはこれまでの人生ではいつも空虚で寂しい問いだった。でもいまは、ちょっと、そして確実に違う。

そう、これが私にとって「祝福」の答えにあたるものだった。
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