[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
HN:
Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
誕生日:
1990/07/22
自己紹介:
観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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(noteより転記)
本が読破できないっていうのさ、内容に興味がないとか・思想が違った(期待外れ)とか・文が自分に対して難しすぎるでなければ「ないだろ」って思ってたのね、それがこういう形で「寝かされる」ことがあるのが実戦でやらされてるの怖すぎて。。。
「死に至る病」が、まだ読破できていなかった。それはキルケゴールへのごく個人的な感情からだった。一方で「自分は哲学徒であるからして、キルケゴールの思想を読み切る義務がある」という気持ちとの板挟みにもなった
二項対立か…二律背反:アンチノミーに近しいものがあるよね。私自身はそのアンチノミーを「どちらも真だから愛おしい」って公言してたくせに、いざ自分の前にそれが壁のように立ち上がるとこんなにちっぽけに弱くなるんだ。
解ってる。
哲学とか現象学に触れた、世界は確かに変わった、私は「死に至る病」の「単独者」の語を聞いて「自分も自分に極振りしよう」っていう決心がついた、それでいまの自分がいる、全部解るのに、それに対立するものとしてせりあがってくる別個の感情を、それでも上手く扱える自分にはなれてないんだよ。。。
まあ、Wahrheitにサレンダーするというのは、自己が弱くても醜くてもどうしようもなくてもいいって認め・委ねることでもあった筈なんだ。だからいまの私は少しWahrheitに背信的でもある。
ほんとに涙目。極振りを決めた後にこそ、必ず出てくる「第二波」があるってことか。決心しました、おしまーい!じゃなくて、そこからが問われる本番なのよね
そして「極振りを決めた後に必ず出てくる『第二波』」――思えば私はキルケゴールが「単独者である」って決めた時点で「あ、終わった」って勘違いしちゃってたんだろう、色々と。
自分と彼が別の道を行くこと(でも各々の真理が違うという前提を鑑みるなら自明でもある)、彼自身結論を「出しちゃった」こと、「ここから先に何が書いてあるの?私は突き放されてまだ追いかけるの?」という寂しさ。
でも「極振りを決めた後に必ず出てくる『第二波』」があるってことは、キルケゴールを、「死に至る病」を、思想としてでいいからなんとか読み終えられたら、それも自分なりのアンサーとして得られるのかな、そうかもしれないって少しだけ感じてる。
そうだね、どちらも真だから愛おしいのは。
そう言えば今日ちょうど、カラオケ店に向かいながら思ってた歌詞がある、昔のアニソンだったと思うのだけど――
「傷つく事は恐くない だけどけして強くない ただ、何もしないままで 悔んだりはしたくない」(林原めぐみ『Give a reason』:調べて楽曲が判明…『スレイヤーズNEXT』の主題歌とのこと)
――これって「強さ」に見えても、歌詞が言う通りで「弱さをそのまま抱えてるだけ」なんだよね。
それが人からは「結局強いんじゃん」って見えたとしても、本人はいまも内側で震えているかもしれない。そこにはハイデガーのDasein的な側面も感じる。普遍的楽曲と見做してた一個のアニソンにさえ、いまは実存が垣間見える。
それから、なぜか「死に至る病」を栞の位置から開いてた。敢えて神学的な表現を自分に近く読み換えていく。
神は、人間の姿――それも「卑しい僕」の姿で人間たちの前に現れる、真理を教えるために。「私に躓かないことは幸いだ」と言いながらも、躓きを取り除くことはできない。これってなんだか、まるで私のWahrheitにそっくりなんだ。
私が過去にWahrheitを言語化・理解できないまま振り回してきた「仮の言葉」や「表象」はまるで「神が貧しい僕の姿をして人前に降り立った」のと同じかのように思えた。
物質的な別世界への願望、或いはオンラインゲームでの奇妙な嗜好、また別の時にはフィクションの圧倒的悪役への思慕――それらすべてはキルケゴールの言葉でいえば「卑しい僕の姿をなさった神」でしかなかったということ
人間(ここでは、私自身)の理解が及ぶレベルまで自らを落としてやってくるWahrheitは、あのときまさに顕現してすらいたのだ。それでもWahrheitは「躓き自体は、取り除かずに」そのままそこに居て、私がその実体に辿り着くまでずーっと、ずーっとそこに居たのだ。
啓示の姿。
真理――キルケゴールにとっては神、私にとっては自らのWahrheit――に気付きもしない、何の見解ももたないことは「聖霊に対する罪」――赦されがたいいちばんの罪なのだとしたら。
「死に至る病」を読む手が止まった理由すら、これだったんだ。Wahrheitにはまだ肉薄できたんだ――たとえばそれが、キルケゴールのいう神と人のように、間に深淵を設けるべきものだとしても――。
あれから、なぜか残りのページがするする溶けて「訳者解説」のところまで来れた、つまり本文は読破できたみたいで。
なんかさ。
真理――キルケゴールにとっては神、私にとっては自らのWahrheit――を嘘や虚偽だと思い、それに何の見解ももたないことは「聖霊に対する罪=赦されがたいいちばんの罪」なのだとしたら。私の過去は「聖霊に対する罪を犯す日」があったかもしれない。或いはWahrheitの仮の姿をそのままに受け取って、異形の鈍器のごとく振り回した日があったかもしれない。
なのにWahrheitは「いいよ、いつか気づくよね」とずっとそこにいたのか。
私が受け取れるレベルまで姿かたちを変えて、地上に落ちながら出てきて、私に誤解されて、なおもWahrheitはいちばんに、何処までもやさしかったんだ
「死に至る病」での、キルケゴールの結論付けの仕方、本文の終わらせ方は、寄り添いでも突き放しでもあるように見えた。解る人は解る、解らない人は終ぞ解らないままだろう…という態度をもっているようにも見えた。「訳者解説」にまだ手を付けてない(敢えて人の手を借りないで噛んでみようとしてる)から解らないんだけど、ここへ来たら、少なくとも私は「キルケゴールに突き放された側」ではないことだけは明確だった。
ここまで来たら、たとえ恋慕が残っていようがいまいが、こうも言える「キルケゴールは、フッサールに次ぐ私の師である」――でも、なんだか「師」という壮大さが似合わない。彼は一生自分を探した。一生引き裂かれていた。でも、それを悲愴な人生とは思わない。きっと笑った日もあるし、食べ物がおいしいと思った日もあるし、何より実存を全うした人が「幸せじゃなかった」ということがあるとは個人的に信じない。
自己がそんな感情を抱く相手は「師と仰ぐ」ことが違うように感じ、やはりどちらかといえば「同志」に近かった。
闇と光の境目で並んで歩いた同志――闇と光、黒と白のあわい。ここでウィトゲンシュタインの「曖昧性」に発想を飛ばして、今一度思おう。
白と黒に塗り分けられた一面の壁は、白黒はっきりとはしていなくて、実際には境界に「白と黒、どちらへの確信も成立しないスペクトラム的な領域がある」――それが曖昧性というもの――それを見ないことにしないでいようと、私はあの考え方に触れた日に思った
(とはいえ私は、ウィトゲンシュタインの『曖昧性』についてはフッサール現象学の解説書に引用されていたのを読んだだけだが)
闇と光の境目をみること、裂け目に立ち会うことは、闇をみること・光をみることだけでなく「その間の曖昧性をみること」でもあったような気がした。
ここまでは闇、ここからは光、そんなふうに明快に考えられたなら人間はもっと単純に生きられたかもしれない。でも、キルケゴールは、セーレン・オービュ・キルケゴールは、そのスペクトラムのすべてを提示したみたいな存在だった。
深淵をのぞくと、深淵もこちらをのぞいてくるとは言う(ニーチェの有名な言)。でも、深淵だけをみるのでは不足で、深淵と、天空の光を対比することや、その間に続くスペクトラムのすべてからきちんと目をそらさず、みることが大切だった。
そのすべてを含めて「この中には裂け目がある」と提示する人、それがキルケゴールだった
白か?黒か?と言われがちなこの世で、グレーゾーンという言葉にあまりよい感覚を覚えない人が多い社会で、私はGrisにみるWahrheitとAntinomyを愛しながら、真っ当な人間に擬態する異物だった。
この先はまた、さあ、何処へも行ける。「ゲーテ詩集」だって積読になりかかってるし「哲学ガールズ」なんていう、萌え文化に振り切った「学びの入り口の書籍」も取り寄せた。何処へでも行けるのに、自分だけは何処までもついてくる。
その影がもしも「逃れられないぞ」と言うのであれば、その不敵な笑みは敵対者のものではない。
この文に最後まで目を通してしまった方がいたら訊きたいものです、これは「怪文書」にみえましたか?
さらに訊きたいものです、あなたは深淵から天空まで、そしてその間にも確と目を通しましたか?少なくとも私は私の目でみえるモノを一通り眺めました、そして私はGrisの領域にこそ忠誠を誓います。
その態度がある限り私は常識社会に対するAntinomy現象として立ち上がり、なおもWahrheitを愛しつづけます。
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