[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
HN:
Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
誕生日:
1990/07/22
自己紹介:
観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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(noteより転記)
「イデアも、コギトも、絶対精神も、全部前提で、脱構築されて、脱構築もまた脱構築される、永久機関のようで思うだけで美しい」
「エピステーメーは壊すモノのようなのに、パラダイムは更新されるモノのような感じがする。その差異がふしぎで心地よい」
近頃の私は、そのように、哲学を「思考の対象」としてでなく「絶対美として鑑賞」することがあった。
哲学も、実存も、現象も、思えば「武器」であるよりは先に必ず「呼吸」だけど、それ以上に「根源的な美」の感覚を伴っているんだってふと感じてる。
硬質な専門用語に触れたがったのは「知識マウント」とか「言葉で殴る」ためじゃなくて、その語感にもっと酔いたいと思っていた側面がたぶんあるんだ。だから、少しでも自分の言葉になるたび、日常にさらりと挟めるようになるたび「嬉しかった」…たとえ聞いてる人がその言葉の意味なんて解ってなくても、取り敢えず自分の語彙にして口からそれが出ていくのが「楽しかった」
世界に前提があること、そもそも世界があるってみんな信じてること、私はいまだに信じられないときがあって、自分すらも「え?いま、ここにいるの?」っていうのが疑問じゃなくて感覚的に訪れる瞬間がある。精神科ではそれを「離人感」と言われたけど、それだとおかしくなる――なぜなら私は幼稚園の頃から同じ感覚を感じてたから。
でも、幼い頃はそれを言葉になんてできなくて「ねえねえ、なんか時々周りがとっても遠くて懐かしい感じがしない?」とあくまで「気持ちよさの観点」からそれを周りの子に語ったことがあるけど「なにそれ??」で終わってた。
哲学や、そういう思想系のものが私にとって根源的な美であるというのは、それで説明がついてしまうほどだ。
世界は前提じゃない。自分は自明のモノじゃない。現実がまだ疑える。これが自分の中の根源的な感覚で、哲学はそこに並び立つ美しさをもつ存在だったんだ
「イデアも、コギトも、絶対精神も、全部前提で、脱構築されて、脱構築もまた脱構築される、永久機関のようで思うだけで美しい」
「エピステーメーは壊すモノのようなのに、パラダイムは更新されるモノのような感じがする。その差異がふしぎで心地よい」
近頃の私は、そのように、哲学を「思考の対象」としてでなく「絶対美として鑑賞」することがあった。
哲学も、実存も、現象も、思えば「武器」であるよりは先に必ず「呼吸」だけど、それ以上に「根源的な美」の感覚を伴っているんだってふと感じてる。
硬質な専門用語に触れたがったのは「知識マウント」とか「言葉で殴る」ためじゃなくて、その語感にもっと酔いたいと思っていた側面がたぶんあるんだ。だから、少しでも自分の言葉になるたび、日常にさらりと挟めるようになるたび「嬉しかった」…たとえ聞いてる人がその言葉の意味なんて解ってなくても、取り敢えず自分の語彙にして口からそれが出ていくのが「楽しかった」
世界に前提があること、そもそも世界があるってみんな信じてること、私はいまだに信じられないときがあって、自分すらも「え?いま、ここにいるの?」っていうのが疑問じゃなくて感覚的に訪れる瞬間がある。精神科ではそれを「離人感」と言われたけど、それだとおかしくなる――なぜなら私は幼稚園の頃から同じ感覚を感じてたから。
でも、幼い頃はそれを言葉になんてできなくて「ねえねえ、なんか時々周りがとっても遠くて懐かしい感じがしない?」とあくまで「気持ちよさの観点」からそれを周りの子に語ったことがあるけど「なにそれ??」で終わってた。
哲学や、そういう思想系のものが私にとって根源的な美であるというのは、それで説明がついてしまうほどだ。
世界は前提じゃない。自分は自明のモノじゃない。現実がまだ疑える。これが自分の中の根源的な感覚で、哲学はそこに並び立つ美しさをもつ存在だったんだ
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