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[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
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Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
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1990/07/22
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観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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(noteより転記)




「疲れ果てて泣くだけ泣いて
『死んでやる』と飯を炊きながら日々を越える」
(『初めての呼吸で』より)

哲学をご存じの方の中にはこのフレーズを目にして「これぞ実存!」と思った方がみえるのではなかろうか。否、哲学なんて知らなくても、こういう「日々を越え」た人、このフレーズに「共鳴」する人は多い筈だ。

さて、先のフレーズは、THE BACK HORN(ザ・バックホーン)というロックバンドの楽曲の歌詞である。

私はTHE BACK HORNがずっと好きだ。始まりは10代の終わり頃、偶然聞いていたラジオから流れた楽曲「声」。一見するとロックバンドによくあるアップテンポのナンバーに思えなくもない。だが、歌詞にあるような「儚さを抱きしめて」いるその音楽性は、私の想像する「普通のロックバンド」とはニュアンスが異なり、ずっと心に残っていて――私はのちにベストアルバム「BEST THE BACK HORN」を購入した。





そこに収録されていたインディーズ時代の楽曲「風船」――これが、恐ろしいほどの「沼」だった。

「神様は救わない 壊れたおもちゃなど」
(『風船』より)

このフレーズが当時「救われる範疇に収まらない存在だった自分」に対して異様に「刺さった」。私の当時のiTunesでの「風船」再生回数は、1000回を突破しようともしていたのを記憶している。

そうして彼らのインディーズ時代の楽曲に着目していく中、ひときわ惹かれたのが「走る丘」――

「走る道 命の駆け引き 宇宙の中の小さな虫」
「涙浮かべて 今、生きよう
生きようとも 生きるとも」
(『走る丘』より)

躁と鬱の間を行き来するような恐ろしい情念や、その渦中の絶望を描く歌詞をなおも「生きようとも 生きるとも」と締めるこのバンドは「心は死にたがるが、命は生きたがる」というような人間の生命力を常に発信してきた。時には残酷にもなり、時には下賤にもなりながら。

「産まれ落ちたことが有罪だとしても命を抱きしめたい
人と人の間 そこにある何かが僕らを明日へと繋ぐの?」
(『人間』より)

「部屋の隅っこも宇宙の端っこも
たいして変わりはないだろ ひざを抱え」
(『ヘッドフォンチルドレン』より)

「子供の頃に描いた夢、大学生と書きました。
子供の夢らしくないと、先生に叱られました。
幸せな家族の風景、無理矢理口に詰め込まれ、
『好き嫌いはいけません』と、母は笑って言いました。」
(『ジョーカー』より)

「蛇腹をめくるような毎日を誰もが過ごしているさって
自分に言い聞かせても何故か辛いのは自分だけだって気がする」
(『番茶に梅干し』より)

列挙するとキリがないほどのキラーフレーズが存在するため、いったん引用を中止したいが、書いているだけでも、これらの歌詞が哲学以外の何であるのだろう?と、今更ながらうっとりしてしまった。10代の頃の私には「哲学」などという概念がインストールされていなかったため、ひたすらに「この人たちは私の代弁者だ」とTHE BACK HORNを信仰するばかりだったが、彼らが私の「生きづらかった一時代」を支えてくれたのは確かだ。

そして近年では――

「拝啓ハイデガー 存在が無えが??」
(『透明人間』より)

「来ました!!」と叫んだ瞬間である――THE BACK HORN側から哲学者の名前が歌詞中に提示されたのだ。しかも「ハイデガー」の名を「存在」という語に引っかけて使っているところが素晴らしい。これは「THE BACK HORNは哲学者たちなのでは?」という私の問いへの「公式アンサー」だ、とすら言いたくなってしまう!

そんなわけで当記事は実存主義ロックバンド:THE BACK HORNの布教記事であった。彼らはいまや充分に有名だと思うが、まだご存じでなかった方で、当記事を読んで気になった方がみえたら――哲学への興味の有無は問わず――是非視聴してみてほしい。
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