[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
HN:
Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
誕生日:
1990/07/22
自己紹介:
観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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(noteより転記)
そもそも私の人生における苦痛というものは、精神病が先立つものではなく――これは飽くまで副産物で――生来の自己の態度が社会の態度と隔絶的であったことに依るものだとは思うが、治療の過程についていまこそ思い出すので、少し語りたい。
精神科にて「認知行動療法」というモノを施されたことがある。この、精神医療における認知行動療法というのは、飽くまで自己を「自明の客観的な認識」に合わせようとする自然的態度の産物であると私は思う。
ゆえに私はこの療法を施されていた頃、ひどく理不尽に感じていた――「自分がそのままにそう感じることを、何故『矯正』せねばならないのだろう?」と。
それは確かに苦しさを伴う「認知の歪み」と呼ばれ得るモノかもしれない。然し私は、それをも含めた上で「自己で在りたかった」のだと思う。
結局のところ、認知行動療法やカウンセリングといった心理学的なアプローチが私を救済することは終ぞなかった。一生必要になる服薬作業を欠かさないことも、ただ生活の最低ラインを確保できるだけであった(それが必要でないとは、無論言わないが)。生きている感じは、そこにはなかったのだ。
その後で、核心的に私を人間たらしめるもの――実存の在り方は、心理学の外にて見つかったのだ。特にフッサール現象学と、キルケゴールの語る実存主義に出遭えたこと――これは一生、魂(プシュケー)が忘れない邂逅だろう。
問題の核心を取り違えてはならない。否、取り違えるという過ちは誰もが犯し得るが、真に生きたければその後自らにおいて問題の核心に気づかねばならない。
「何が何でも、このままで終わりなんて嫌だ」その思いだけが、私を真理へと導いたのだと感じている。
そもそも私の人生における苦痛というものは、精神病が先立つものではなく――これは飽くまで副産物で――生来の自己の態度が社会の態度と隔絶的であったことに依るものだとは思うが、治療の過程についていまこそ思い出すので、少し語りたい。
精神科にて「認知行動療法」というモノを施されたことがある。この、精神医療における認知行動療法というのは、飽くまで自己を「自明の客観的な認識」に合わせようとする自然的態度の産物であると私は思う。
ゆえに私はこの療法を施されていた頃、ひどく理不尽に感じていた――「自分がそのままにそう感じることを、何故『矯正』せねばならないのだろう?」と。
それは確かに苦しさを伴う「認知の歪み」と呼ばれ得るモノかもしれない。然し私は、それをも含めた上で「自己で在りたかった」のだと思う。
結局のところ、認知行動療法やカウンセリングといった心理学的なアプローチが私を救済することは終ぞなかった。一生必要になる服薬作業を欠かさないことも、ただ生活の最低ラインを確保できるだけであった(それが必要でないとは、無論言わないが)。生きている感じは、そこにはなかったのだ。
その後で、核心的に私を人間たらしめるもの――実存の在り方は、心理学の外にて見つかったのだ。特にフッサール現象学と、キルケゴールの語る実存主義に出遭えたこと――これは一生、魂(プシュケー)が忘れない邂逅だろう。
問題の核心を取り違えてはならない。否、取り違えるという過ちは誰もが犯し得るが、真に生きたければその後自らにおいて問題の核心に気づかねばならない。
「何が何でも、このままで終わりなんて嫌だ」その思いだけが、私を真理へと導いたのだと感じている。
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