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[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
HN:
Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
誕生日:
1990/07/22
自己紹介:
観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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(noteより転記)




19:48 差延。現象が「ずれ続けるもの」ならば。自己は固定されていて、理解されきるべきものだなんて考えは、私自身が最も嫌ったものではなかろうか?たとえ自分自身でも、ジョハリの窓の4つめのような部分だって確実に存在するのだし。
解らないのは、罪でも、寂しさでもないのかもしれない。マインドフルネスは嫌い。だけど、エポケーは好き。言い方の問題。光の当て方の問題。心理学の「あなたのままでいいよ」より、ハイデガーのDaseinが心に響いたのだ。19:52

(アナログ日記より)






私はフッサール現象学に触れた時、自己の生来もつ現象学的態度を知り、世間が自然的態度で出来ていること、みんなの自明は普通に自明なものだったこと、すると私がそこから「ずれる」構図になっていることをやっと垣間見た。

でも、フッサールの「還元」の向こう側で、デリダがさらに「そもそも純粋な現象なんてあるのか?」と問いを投げていたのならば――私も止まってはいられない。

「差延」も「脱構築」も、ちゃんと理解できてるなんて思ってないけど、私は「自己とは現象学的態度をもつ何者かでした。だから私は社会とずれてしまっていました。嗚呼、解ったね、よかったね。はい、終わりです」なんて結論づけているだけで居てはいけない。

私は今も開かれつづける地平の前に立っているし、現象はずれ続けている――実際、今もデスクでタイピングしながら、何処か自分の心身を自明なものと思えない感覚は、捨てられていないのだ。

実際私は私のヴァールハイト(※自己の主体的真理をこう呼んでいる)について、きちんと言語化できたためしもないくせして、何かを結論づけて定義しようとはしていないか?

何もヴァールハイトそのものを疑えって訳じゃない。言ってたでしょう?ヴァールハイトそのものが、定義した瞬間いなくなる存在なんだ。

私は今もまた、ヴァールハイトをこの場から無思考に立ち去らせていたのかもしれない――曖昧なことは確かに怖い、はっきりさせたら安心する、それは人間の性分。でも――「物事の曖昧性を無視するのは存在に失礼」と言っていた自分の姿勢そのものが、少し揺らいでいたのかもしれないと、ふと立ち返った夜。

意味が確定しないことは不安かもしれない。でもそれがキルケゴールの言うような、自由に由来する「めまい」だったら?私はまだ絶望できるのかもしれないよ、もっと自己で在れるのかもしれないよ。
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