[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
HN:
Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
誕生日:
1990/07/22
自己紹介:
観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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(noteより転記)
◆「承認の必要が訪れた時点で、寂しい」
私は半生の中で「母が愛してくれなかった=母・他者からの承認が足りない=自己肯定感が不足している」と考えていた頃があった。
だから、セルフ・マザリングにも手を出したことはあるし、哲学を知らなかった頃は心理学や自己啓発の立場から、所謂「自己肯定感を上げる」ワークも色々していた。
結果として、心理学も自己啓発も効かなかったし、私怨もあって私はそれらの「アンチ」になっただけだったが(苦笑)
そう、心理学の本で自己肯定なんてのを読むと「インナーマザー」「インナーチャイルド」なんて出てきたりして「インナーチャイルドを癒そう」がひとつの「答え」として先に提示されてしまう、この危険性について。
私はそれを或る時まで、ずっと「唯一の正答」だと思い込んで、この仕方で自己肯定する=救われる、だと思って歩いてたんだろうなと、今気づいているのだが――ワークの類を律儀に試し続けていた身からすると、今の時点での感想は
「承認の必要が訪れた時点で、寂しい」
「承認を求める行為そのものが、寂しい」
というものなのだ。すると、そもそも「承認する・される」という地点に辿り着くことや「答え」の必要性について、再考することになる。
◆曖昧性を考え続ける
答えを出さない・成立させないという仕方は、今の私がちょうどデリダの思想に触れた後だからか、すごく深みをもって迫ってくる。
純粋な現象なんてない、本体そのものがそのまま現れることはない、それでも「これ」と決めてしまうことは「暴力」になりうる――ちょうど心理学の本で提示された「インナーチャイルドを癒そう」とかいうのは、過去の私にとってそういう「暴力性のある言葉」だったのかもしれない。
しかも、それが暴力的な顔をしていなかった(寧ろ『救い』『答え』として提示されていた)ゆえに、無思考に「これだ、これで私が助かる」と飛びついた過去の自分もいたってことかもしれない。
でも現状、それとは別の仕方で今の私は「助かっている」。
哲学はちょうど、答えのない問いに、それでも向き合い続けるような分野じゃないかと私は思う。正解というのは実はなくて、各々が考えをもつことや、問いに真摯であることが大切にされてるようなイメージ。
たとえば、カルネアデスの板やトロッコ問題のようなテーマがこれを象徴している気がする――「誰がこの板に掴まる?」「1人か5人、どっち?」なんて明確に答えなくていい。答えを出せない曖昧性の中に立ちつづけること。
ちなみに、デリダはフッサールに「突っ込みを入れた」立場だとは思うが、それでもフッサールの「エポケー」は、ここへきてなおも重要な仕方だと私は感じている。
諸々の意味や判断を括弧に入れる。でも、それだけで放棄してはいけないというのが、私がデリダに触れて思う新しい「エポケー」。
◆変身
私自身も「承認されること」に何らかの立場を取らされ続けるかもしれないし、そのたび「寂しい」とは思うかもしれない。でも「何らかの立場を取らされる」「寂しいという感情」について、ずらし続けることはできるのではないか?とも思う。
或いはそれを「寂しさ」という語で語らないことすらも可能になるかもしれない。「寂しさ」という語に、色々「盛らない」こと。
それは、デリダが言った――もし本当に言っているならだが――抹消の暴力からの、ごくわずかな解放運動みたいなものだ。
私は心理学や自己啓発を読んでいた頃、ずっと「自分を愛することは一生、私のテーマだろう」と信じてた。然し、今の私というのは、それを静かに脱ごうとしているような気もする。
自分を愛するか・愛さないか?肯定できるか・できないか?どちらかに振り切らなくても、生は今日もここに在り、進んでゆく。
そこへきて、たとえ寂しさが生じたとしても「自己肯定しよう」も「何らかの仕方でこの気持ちを消そう」というのも、今の私にとっては、或る種正しくない。少なくとも今言えること。寂しさを感じられるなんて、私は至極真っ当な人間だろうということだ。
◆「承認の必要が訪れた時点で、寂しい」
私は半生の中で「母が愛してくれなかった=母・他者からの承認が足りない=自己肯定感が不足している」と考えていた頃があった。
だから、セルフ・マザリングにも手を出したことはあるし、哲学を知らなかった頃は心理学や自己啓発の立場から、所謂「自己肯定感を上げる」ワークも色々していた。
結果として、心理学も自己啓発も効かなかったし、私怨もあって私はそれらの「アンチ」になっただけだったが(苦笑)
そう、心理学の本で自己肯定なんてのを読むと「インナーマザー」「インナーチャイルド」なんて出てきたりして「インナーチャイルドを癒そう」がひとつの「答え」として先に提示されてしまう、この危険性について。
私はそれを或る時まで、ずっと「唯一の正答」だと思い込んで、この仕方で自己肯定する=救われる、だと思って歩いてたんだろうなと、今気づいているのだが――ワークの類を律儀に試し続けていた身からすると、今の時点での感想は
「承認の必要が訪れた時点で、寂しい」
「承認を求める行為そのものが、寂しい」
というものなのだ。すると、そもそも「承認する・される」という地点に辿り着くことや「答え」の必要性について、再考することになる。
◆曖昧性を考え続ける
答えを出さない・成立させないという仕方は、今の私がちょうどデリダの思想に触れた後だからか、すごく深みをもって迫ってくる。
純粋な現象なんてない、本体そのものがそのまま現れることはない、それでも「これ」と決めてしまうことは「暴力」になりうる――ちょうど心理学の本で提示された「インナーチャイルドを癒そう」とかいうのは、過去の私にとってそういう「暴力性のある言葉」だったのかもしれない。
しかも、それが暴力的な顔をしていなかった(寧ろ『救い』『答え』として提示されていた)ゆえに、無思考に「これだ、これで私が助かる」と飛びついた過去の自分もいたってことかもしれない。
でも現状、それとは別の仕方で今の私は「助かっている」。
哲学はちょうど、答えのない問いに、それでも向き合い続けるような分野じゃないかと私は思う。正解というのは実はなくて、各々が考えをもつことや、問いに真摯であることが大切にされてるようなイメージ。
たとえば、カルネアデスの板やトロッコ問題のようなテーマがこれを象徴している気がする――「誰がこの板に掴まる?」「1人か5人、どっち?」なんて明確に答えなくていい。答えを出せない曖昧性の中に立ちつづけること。
ちなみに、デリダはフッサールに「突っ込みを入れた」立場だとは思うが、それでもフッサールの「エポケー」は、ここへきてなおも重要な仕方だと私は感じている。
諸々の意味や判断を括弧に入れる。でも、それだけで放棄してはいけないというのが、私がデリダに触れて思う新しい「エポケー」。
◆変身
私自身も「承認されること」に何らかの立場を取らされ続けるかもしれないし、そのたび「寂しい」とは思うかもしれない。でも「何らかの立場を取らされる」「寂しいという感情」について、ずらし続けることはできるのではないか?とも思う。
或いはそれを「寂しさ」という語で語らないことすらも可能になるかもしれない。「寂しさ」という語に、色々「盛らない」こと。
それは、デリダが言った――もし本当に言っているならだが――抹消の暴力からの、ごくわずかな解放運動みたいなものだ。
私は心理学や自己啓発を読んでいた頃、ずっと「自分を愛することは一生、私のテーマだろう」と信じてた。然し、今の私というのは、それを静かに脱ごうとしているような気もする。
自分を愛するか・愛さないか?肯定できるか・できないか?どちらかに振り切らなくても、生は今日もここに在り、進んでゆく。
そこへきて、たとえ寂しさが生じたとしても「自己肯定しよう」も「何らかの仕方でこの気持ちを消そう」というのも、今の私にとっては、或る種正しくない。少なくとも今言えること。寂しさを感じられるなんて、私は至極真っ当な人間だろうということだ。
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