◆志向性
意識は必ず「何かについての意識」で、矢印のように方向をもっている、このこと。意識は「〇〇についての意識」としてしか成立しない!
◆ノエシス-ノエマ
解説書ではざっくり「それぞれコギタチオとスペチエスのようなもの」と解説されてた。実際に細かく言うと:ノエシス→見る・思い出す・想像する・評価する・疑う…といった意識の「動き」:ノエマ→対象の意味付けられた「現れ方」色も形も、意味付けも「これは〇〇だ」という概念も!
◆地平
意識から与えられる世界の感じ方の土台。それはいま眼前に見えているものだけでなく「背後はこうなっているだろう」とか「他の人からみたらこうだろう」とかいう可能性の束をも含んでいる。みんな違う地平(個人的地平)をもってるけど、世界確信をもつとき、間主観的には同じ地平(間主観的地平)に立てる!これ奇跡すぎる
地平が出来るまでには様々な経験の連鎖があり、それはジョン・ロックの経験論を思わせれるけど、ロックの論だと「意味も経験から作られる」解釈なのに対して、フッサール現象学では「経験は最初から意味をもってやってくる」と解釈。経験そのものは「生データではない」
◆志向的満足性
「意識が予期していた現れ方」と「実際の現れ方」の一致。振り向いたら本棚があるだろう→後ろを見たら本棚があった。この満足のこと。
◆妥当性の層
妥当性にはいくつかある。個人だけが確信しているのか、親しい人との間で確信になるのか、村レベルで確信してるか、世界的常識の確信なのか…この違いを「層」という言葉で表している。
志向性満足性や、妥当性の層は、揺らがないほうが安心するように思えるけれど、寧ろ少しぐらい揺らしてあげたほうが「地平が開ける」かなと感じる
◆対象妥当性の共有
他者に「リンゴ取って」と言ってちゃんとリンゴを取ってもらえるのは、私と他者が「同じリンゴの世界」を共有しているから。これは「当たり前」ではない…間主観性がなかったら「リンゴ取って」も相手からは「は?リンゴ?取るって何?」となってしまい、社会そのものが成立しなくなる。
◆身体的間主観性
他者のことを「相手も自分と同じ構造をもつ存在だ」と認識し、ひいては「私と同じ世界を共有できる存在だ」と認識すること。
◆宙づり
エポケー(判断中止)すると、自然的態度の確信が握られた手から離れるような状態になる。それのことを「宙づりになる」と呼ぶ
◆移入
他者の身体を「この人も心が或る」「世界を一緒に見ている」と思える意識の能力。これがなかったら、痛がっている怪我人がいても、手当てをするとか、救急車を呼ぶとかいう発想に至れず「ただ肉塊が動いてる」と認識してしまうだろう。よく言われる「想像激痛」とかは移入そのもの。「間主観性は移入の地平から立ち上がる」
◆生活世界
フッサールは晩年、自然的態度でできた世界のことをみんなが共有する間主観的な前提としてこう表した(らしい)。
おまけ:エポケーの由来は、古代ギリシアの哲学者ピュロンの語(懐疑論の祖と呼ばれる人物らしいが、私にはどうもピュロンが『懐疑論者』に思えない)――フッサールはそこに新しい解釈を加えていると言えばよいか。
