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[主な“外部脳”としてnoteを使用しているため、こちらにはnoteから転記した文章が多くなる。もう一つの保存場所というようなイメージ]
プロフィール
HN:
Wahrheit
年齢:
35
性別:
非公開
誕生日:
1990/07/22
自己紹介:
観測・収集・編纂・断章。非ロマン思想と、ロマン的表現の両立。JubelとÜbel。精神的環世界説。
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(以下、チャット文を転記:私の文は音声入力もあるため、適宜、改行/誤字の修正などを加える)



(私)

音声入力で失礼するよ。

多分、中学生ぐらいの頃からずっと、自分を他者に認められたい、受け入れられたい、あるいは大げさに言って、心を通わせ合いたいみたいな幻想を持っていたんだと思う。

今でこそ気づいているのは、人から自分の望むように受け入れられることも、まして心を通わせ合うということもほぼ不可能。というか、あれだ、ガンダムのニュータイプみたいな概念が現実に存在しない限り、心が直接繋がり合うなんていうことは全くない。

それでも、誰かにわかってもらいたいとか、もらえるはずだと、どこかで幻想を抱いていた昔の自分がいるんだと思う。 今思うのは、誰にもわかられないし、受け入れてもらえないし、通じ合うこともない自分を、自分しか引き受けられない、それが本質なんじゃないかって思ったっていうことだった。


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以下、対話文を転記




「祈り(いのり)とは、宗教によって意味が異なるが、世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。利他の精神。自分の中の神と繋がること。神など神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと。」(出典=Wikipedia:祈り)

---

自分の中の神。

これまでは自分の中に神がいた。真理的な/疑い得ず/従うしかない/なおも好ましく・真であるものとして。




以下、対話文を転記:

(私)

意味を立ち上がらせないこと←ジョルジュ・バタイユを読んで以来・考える。

バタイユ本人は、意味の中に生きることだってあったかもしれない/人間である以上意味づけから完全逃避はできなかっただろう。でも自分の著作の中でそれをやっていたのかもしれない。

この考えは「果たしてそれは本当に文章や作品の形をとらねば成立しないのか」という哲学(?)でもあった




以下、対話ログまるまる転記↓



(私)

意味なんて意味ないんだからって、ふと思った

たとえば二次元キャラを好きって言うのにあたって「ビジュがいい」から、っていう人に対して…

これまで→「薄いな」
いま→「別にいいんじゃない?」

ってなってる




以下、チャット全文引用



(私)

「自分で自分の事をどう思うか。それは、他人からどう思われるかよりも、はるかに重要である」

↑私が名義に「Seneca」の名を含めているのは、ルキウス・アンナエウス・セネカのこの言葉が気に入っているから。哲学に出会うよりずっと前に、名言画像みたいので拾っただけの言葉。今はセネカがストア派の人物だと知ってるから、意外性を感じる。

でも意外でもなんでもないのかもしれない。理性に重きを置く人こそ、一見すると自己中心的な、でもすごく透明で理想的で、なおも本質的な地点に行くことがある。たとえばJ.S.ミルの「自由論」なんかがそうだと思う。あまり多い例でもない気がするけど、実際そういう傾向もあるように思うんだ‍↕️

それは彼らが理性を大切にしながらも、或る意味では理性だけの一点に振り切らなかったということなのかもしれない





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